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05/12/2004

曇り

昨日の今日で気温がまた下がった気がする。

今日は免許の講習会を受けに免許センターに。警察署で指定された日がわたしの講義の予定にぴったり当てはまったりするわけです。ちなみに、時間の指定は9時から9時45分に、二俣川の免許試験場に来るように、と。正直者のわたしは9時より前に余裕をもって免許センターに行ったなら、案の定、その時間は受け付け時間で、結局講習が始まったのは10時でした。

講習は、映画と「自己診断」、そして事故データや法改正の要点説明という組合せ。映画はさだまさしの歌(タイトルがわからないけれど、事故の償いで送金をし続ける歌)を挿入歌にしたもの。飲酒運転で(さだまさしの歌は「疲れていた」はずだぞ)人を引き殺してしまった男の物語でした。

この映画の言いたいことは基本的に理解できます(お酒を飲んだら運転してはいけないし、一回の事故がその人の人生だけではなく、殺された人の家族や、自分の家族の人生を変えてしまう)。それでも、二箇所どうしても承伏しかねる部分があるのです。それは、加害者側の家族が受ける、「社会的制裁」と言う名のいじめです。彼の長女は中学校で「人殺しの子」と呼ばれ、妻はゴミを捨てに出ていくと(聞こえるほど大きな声で)、「どういうつもりでこの街に住んでるんでしょうね」と言われるのです。一体、この国の社会はいつから法治でなくなったのでしょうか。

全く理由なく格好の標的ができたという理由でそういう発言をするなら、彼らは厳しく糾弾されなくてはなりませんし、もし何らかの理由、例えば「被害者の代わりに正義を果たしてやっている」、があったとしても、それは全くの独りよがりで許容の余地はないはずです。被害者の怒りを横取りして、自らの溜飲を下げるために使うというのは大変卑怯だし、それは被害者の気持ちをかえって踏みにじる行為として描かれなくてはならない性質のもので、少なくとも交通事故の責任としてカウントされるべき代物ではないのです。

被害者の怒り・哀しみ、そして本人の負う精神的な苦痛(自業自得と簡単に言い切れるでしょうか)、さらに金銭的な負担…そういったものを指し示すことがひょっとしたら何らかの抑止になると考えるのは理解可能ですが(それが効果的かどうかは疑問が残りますが)、社会的ないじめも引き起こすということは理解可能でもないし、許容できることでもありません。

地元に戻って警察署に届いた免許証を受け取ったら、何だか「ヒッピーのなれの果て」みたいな写真で、しかも目つきも悪かったりして悲しかったです。

夕方のバイト。学生に弱点を押えられいじられるのは、コミュニケーションが進むという点では歓迎すべき事態だけれど、彼の勉強する手が止まるという宜しくない副作用も生んでしまうようだ。バランス感覚の難しさを学ぶ。

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